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フィリピンのボホール島の隣、
パングラオ島にある『アローナビーチ』へ行ってきた。
ここはドイツ人を初めとするヨーロッパ系のダイバーに人気の素朴なビーチで、
ここを拠点としてダイバー達は、バリカサグやパミラカン、ドーマゲーテやアポへと潜りに行く。
夜は街燈がない代わりに、月明かりと満天の星空を見ることができる。
ビーチ沿いのバーで、波の音をBGMに地元の若い連中と酒を飲みながら、バカ話に花が咲く。
横から初老のオーストラリア人紳士(酔っていたのでそう見えたのか?)が話し掛けてきた。
彼は海を愛してるのだろう、ヒトデ退治の話を持ちかけてきた。
「あいつらは珊瑚を食べる悪い奴らで、いいことなんて何もないから、退治しよう!」と。
「1個獲って1ペソ、20個でビール1本飲めるぞ!」って。
結局飲みたいだけなんかいな??(笑)
その次に行ったバーでは、
同年代の英国人3人組と騒いで踊って、最後には一緒に海に飛び込んだ。
「英国人ってこんな奴?」って思ってたら、
その英国人も、「日本人ってこんな奴ら?」って思ってたみたい。
後で話した時、お互いそう思ってたのが分かって大笑い。
ほんと、のんびりした島だ。
3日もすると、みんなと顔見知りになってしまう。
ところで、海は?
どこまでも透き通るエメラルド色、
夜空を見上げると手の届きそうな所に満点の星空がある。
英国の老舗テーラー『ヘンリー・プール』が、
雑誌『NILE’S NILE』で紹介されましたので、紹介させて頂きます。
ヘンリープールのHPは http://www.henrypoole.com/ です。
紳士服のエレガントの最高峰
ヘンリー・プール
アンガス・カンディ
ヘンリー・プール社長
世界に名を残す紳士たちに愛され続けてきた
ヘンリー・プールのスーツ。
瞬間的な流行を追わず、いつの時代にも通用する
グッドテイストを作り続けること。
それが『BRITISH WAY OF LIFE』である。
Photo Tomoaki Hattori Text Junko Iwakuma
歴史を持ったブランドの服を身につけるとき、
布地が身体にフィットした瞬間に、
その伝統の重さを感じることがある。
一八〇六年、軍服専門店として発祥した
ヘンリー・プールのスーツがまさにそれだ。
二代目店主であったヘンリー・プールが、
世界的に有名なロンドンのサヴィル・ローに
最初のカスタムテーラーとして店を構えたのが一八四六年。
店舗を社交場として開放し、巧みな社交術でロンドンでも評判となる。
ヘンリー・プールの顧客リストには、
シャルル・ドゴール元仏大統領、作家のチャールズ・ディケンズ、
ウィンストン・チャーチル元英首相など、
誰もが知っている紳士たちが名を連ねている。
日本人の顧客も多い。
古くにはロンドンに開設された日本大使館の職員たちの名前もある。
着物姿で渡英した彼らが、
サヴィル・ローで三つ揃いの洋装を仕立てたところから
“背広”と呼ばれたという逸話もあるのだ。
また、吉田茂元首相や、一九一二年にご訪英した
昭和天皇のお名前を見ることもできる。
当時皇太子であった昭和天皇は、最初の寄港地、
ジブラルタルに到着した。
そこで採寸が行われ、次の寄港地であるポーツマスでは
仮縫いが行われた。
最終目的地のロンドンに到着したときには
みごとに仕立てあがった正装で、
宮廷の晩餐会に出席なさったというのだ。
紳士服の歴史を紡いできたヘンリー・プール社は、
現在六代目の社長、アンガス・カンディ氏が率いている。
大柄な身体にダークな色のスーツを着、
まさしく英国紳士そのものといったカンディ氏は、
最近の紳士服の傾向についてこう語る。
「アメリカではカジュアルフライデーなどが提唱されていますが、
私はやはりエレガンスが好きです。
近年、紳士服の世界では、エレガントなスタイルを好む傾向が、
特にヨーロッパで顕著です。
若い人たちは結婚するときにフロックコートや燕尾服などを
着用するようになっていますが、それは私には喜ばしいことですね。
また、オーダー服も人気を博するようになってきました。
わが社とは一九六四年からのつきあいになる松坂屋さんが、
今年からパターンオーダーを開始することになって、
私はとても喜んでいるのです」
カンデイ氏のいうパターンオーダーとは、ヘンリー・プール社が、
販売に際して使っているロンドンマーチャント
(世界のテーラーに生地を供給する生地問屋)の生地見本と
まったく同じものが日本で注文できるシステムである。
バンチ(生地見本)で選べる総生地点数は一千点以上。
採寸によりパターンを決定した後、
シングル、ダブル、ボタン数やベントなど、
全体的なデザインや微調整を行い、
自分だけの一着をオーダーできるのだ。
ヘンリー・プールの基本コンセプトは『BRITISH WAY OF LIFE』。
ナチュラルなショルダー、ウエストシェイプ、
そしてフィット感を重視する職人技の仕立てである。
「素材によってカッティングを変える」というほど
大切に素材を扱うノウハウは、
生地を扱って約百五十年という伝統の中に蓄積されてきたものだ。
伝統について、カンディ社長は言う。
「最近、サヴィル・ローにも新しいデザイナーたちが入ってきて、
だんだんと変化しています。
ヘンリー・プールの職人も三分の一が三十五歳以下の若い職人です。
しかしこの若い人たちが育ち、伝統を受け継いでくれれば、
ファッション傾向がどう変わろうとも、
スタイリングのディテールを過大に強調することはないという
わが社のスタイルは継承されていくでしょう。
実は私も、そして私の息子も若い頃は、
伝統に反発した時期もありました。
しかし今ではへンリー・プールの伝統の素晴らしさを
深く実感しています。
ヘンリー・プールのスーツは瞬間的な流行を追うものではありません。
いつの時代でも適用するグッドテイストを大切にしているのです」
(「Nile’s NILE」11月号 106ページより掲載)
雑誌『NILE’S NILE』で紹介されましたので、紹介させて頂きます。
ヘンリープールのHPは http://www.henrypoole.com/ です。
紳士服のエレガントの最高峰
ヘンリー・プール
アンガス・カンディ
ヘンリー・プール社長
世界に名を残す紳士たちに愛され続けてきた
ヘンリー・プールのスーツ。
瞬間的な流行を追わず、いつの時代にも通用する
グッドテイストを作り続けること。
それが『BRITISH WAY OF LIFE』である。
Photo Tomoaki Hattori Text Junko Iwakuma
歴史を持ったブランドの服を身につけるとき、
布地が身体にフィットした瞬間に、
その伝統の重さを感じることがある。
一八〇六年、軍服専門店として発祥した
ヘンリー・プールのスーツがまさにそれだ。
二代目店主であったヘンリー・プールが、
世界的に有名なロンドンのサヴィル・ローに
最初のカスタムテーラーとして店を構えたのが一八四六年。
店舗を社交場として開放し、巧みな社交術でロンドンでも評判となる。
ヘンリー・プールの顧客リストには、
シャルル・ドゴール元仏大統領、作家のチャールズ・ディケンズ、
ウィンストン・チャーチル元英首相など、
誰もが知っている紳士たちが名を連ねている。
日本人の顧客も多い。
古くにはロンドンに開設された日本大使館の職員たちの名前もある。
着物姿で渡英した彼らが、
サヴィル・ローで三つ揃いの洋装を仕立てたところから
“背広”と呼ばれたという逸話もあるのだ。
また、吉田茂元首相や、一九一二年にご訪英した
昭和天皇のお名前を見ることもできる。
当時皇太子であった昭和天皇は、最初の寄港地、
ジブラルタルに到着した。
そこで採寸が行われ、次の寄港地であるポーツマスでは
仮縫いが行われた。
最終目的地のロンドンに到着したときには
みごとに仕立てあがった正装で、
宮廷の晩餐会に出席なさったというのだ。
紳士服の歴史を紡いできたヘンリー・プール社は、
現在六代目の社長、アンガス・カンディ氏が率いている。
大柄な身体にダークな色のスーツを着、
まさしく英国紳士そのものといったカンディ氏は、
最近の紳士服の傾向についてこう語る。
「アメリカではカジュアルフライデーなどが提唱されていますが、
私はやはりエレガンスが好きです。
近年、紳士服の世界では、エレガントなスタイルを好む傾向が、
特にヨーロッパで顕著です。
若い人たちは結婚するときにフロックコートや燕尾服などを
着用するようになっていますが、それは私には喜ばしいことですね。
また、オーダー服も人気を博するようになってきました。
わが社とは一九六四年からのつきあいになる松坂屋さんが、
今年からパターンオーダーを開始することになって、
私はとても喜んでいるのです」
カンデイ氏のいうパターンオーダーとは、ヘンリー・プール社が、
販売に際して使っているロンドンマーチャント
(世界のテーラーに生地を供給する生地問屋)の生地見本と
まったく同じものが日本で注文できるシステムである。
バンチ(生地見本)で選べる総生地点数は一千点以上。
採寸によりパターンを決定した後、
シングル、ダブル、ボタン数やベントなど、
全体的なデザインや微調整を行い、
自分だけの一着をオーダーできるのだ。
ヘンリー・プールの基本コンセプトは『BRITISH WAY OF LIFE』。
ナチュラルなショルダー、ウエストシェイプ、
そしてフィット感を重視する職人技の仕立てである。
「素材によってカッティングを変える」というほど
大切に素材を扱うノウハウは、
生地を扱って約百五十年という伝統の中に蓄積されてきたものだ。
伝統について、カンディ社長は言う。
「最近、サヴィル・ローにも新しいデザイナーたちが入ってきて、
だんだんと変化しています。
ヘンリー・プールの職人も三分の一が三十五歳以下の若い職人です。
しかしこの若い人たちが育ち、伝統を受け継いでくれれば、
ファッション傾向がどう変わろうとも、
スタイリングのディテールを過大に強調することはないという
わが社のスタイルは継承されていくでしょう。
実は私も、そして私の息子も若い頃は、
伝統に反発した時期もありました。
しかし今ではへンリー・プールの伝統の素晴らしさを
深く実感しています。
ヘンリー・プールのスーツは瞬間的な流行を追うものではありません。
いつの時代でも適用するグッドテイストを大切にしているのです」
(「Nile’s NILE」11月号 106ページより掲載)
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ブルータス「2001・6・1号」にお客様の病院が紹介されましたので
ご紹介させて頂きます。
奈良の学園前にある浜中矯正歯科の院長をされている浜中康弘さん。
ここの病院はロケにも使えるような洒落た空間です。
5月31日には毎日放送の「ちちんぷいぷい」でも放送されました。
http://www.yoihanarabi.com
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今日、いつもスーツを作って下さってるお客様が
奥様の為に買ってあげたという車を見せに来て下さいました。
以前から話には聞いていたので、見せて下さるようにお願いしていたんです。
高田 知哉さん(31歳)車名は「スマート」
時計の「スウォッチ」と車の「メルツェデス」がコラボレートして生まれた
話題の車なので、ご存知の方も多いと思います。
2シーターで、写真を見ても分かるように、
とってもキュートなスタイルをしています。
エンジンは600ccターボ付きエンジンをRRでマウント。
ミッションはなんと6速のセミオートマ!
マニュアルモードにも切り替えられるんですよ。
乗せて頂いたんですが、ボディーサイズからは想像もつかない程、
剛性感も高く、乗り心地はまさしくベンツそのもの!
室内もとってもポップで、おまけにみんなの視線をビシバシ感じるので
気分は最高でした。
こんな車を買ってもらって、奥様幸せですね!
僕も誰か買ってくれないかなぁ(笑)
マッセアトゥーラのお客さまで、
僕が集めている「ルネ・ラリック」や「バカラ」の
アンティーククリスタルを扱っているお店のオーナー鈴木さんが、
雑誌「Nile’s NILE」に掲載されましたので紹介させて頂きます。
鈴木さんのお店:ギャルリー・オルフェ(http://www.g-orphee.com)
参考:「Nile’s NILE」は限られた読者だけに、
ダイレクトに自宅発送されるライフスタイルマガジンです。
従って一般の書店には置いてありません。(1冊1,500円)
以下、掲載内容を載せておきます。
暮らしのなかで芸術を愛でる喜び (掲載雑誌画像はこちら)
鈴木 尚志
ギャルリー・オルフェ
アンティーク・コレクション。始まりは、最初の一個から
鈴木尚志氏が営む二軒のアンティークショップ、
「ギャルリー・オルフェ」と「アンティークかとう」は、
骨董店が軒を連ねる京都・新門前通りにある。
「ギャルリー・オルフェ」は、1920~30年代のアール・デコと
呼ばれる時代に人気を博したフランスの天才ガラス工芸家、
ルネ・ラリックの作品をコレクションしたショップ。
「アンティークかとう」はガラス製品や陶器、コスチュームジユエリーなど、
1900~50年代を中心とする、20世紀の装飾美術を扱う店である。
「もともと父がやっていた頃は和ものの店でした。
私もその家業を手伝っていましたが、何度か海外に出かけるなか、
15年ほど前にルネ・ラリックと出会ったのです。」
「作品そのものが持つ魅力に引き込まれると同時に、
それが”ちょっとがんばれば買える値投”であることに、
つまり作品とお金の価値がぴったり一致したことに感動しました。」
「自分自身が『好き』という気持ちからのめりこんだラリックを
ビジネスにできるのは喜びだ、そう感じたのです。」
店の片隅に二点、三点と置いたラリックが売れていくなか、
鈴木氏は次第にアイテム数を増やしていき、
十年前に店を現在の形態に改装したそうだ。
「好きだから、ラリックを生業にしている」と言う氏だからこそ、
そのコレクションは同じ感性を持つ客を惹きつけたのだろう。
「アンティークは後生大事にしまっておくのではなく、
生活のなかで使えるものであることが大切です。」
「たとえばラリックの花瓶に花を生ける、
バカラのワイングラスでお気に入りのワインを味わう・・・
生活の一コマにアンティークがあれば、それだけで幸せを感じるものです。」
「とくに入門者の方は、高い値段や名前に惑わされず、
自分が使ってみたいと思うものを何か一つ、
少々無理をして購人してみることをお勧めします。」
「使うことによって、もっと奥にある楽しみを感じることができるはずです。
そうなれば、次は鉢を買ってみようかな、リキュールグラスにしようかなと、
楽しみが広がっていくでしょう。」
一時、お預かりしている物、それがアンティーク
最近女性層を中心に、アンティークへの関心が高まっているという。
殺伐とした日常にあって、せめで家の中では安らぎを感じていたい。
そんな気持ちが幸福感を与えてくれるアンティークヘと何かっでいるのかもしれない。
「生活の安らぎを古い物が持つ温もりに求める人、
現代のインテリアにもマッチする斬新なスタイルを古い物に求める人、
アンティークに向かう気持ちはさまざまですが、
金持ちの道楽的要素は少なくなってきましたね。」
「いずれにせよ、思想があるからこそ、コレクションは楽しいのです」
と鈴木氏は言う。
また、時代を経て受け継がれてきたアンティークには、
現代の大量生産によって作られる画一的な商品にはない味わいがある。
鈴木氏によると、「アンティークには、その物が生きてきた時代の風や空気が感じられます。」
「職人の手によって一つ一つ創り上げられた、心意気のようなものも感じられます。」
「だからアンティークを手に収ると不思議と
『どんな時代に生まれたのだろう?』『どんな人が使ったのだろう?』
といった素朴な疑問がわいてくるのです。」
「『好き』が高じて、アンティークに潜むバックポーンを研究する人も多いんですよ。
それも、アンティークをコレクションする楽しみの一つだと思いますね」とのこと。
お話をうかがうにつれ、アンティークが身近な物に思えてくる。
さらに鈴木氏が指摘するのは、
日本人には「家が落ちぶれたときに売りに出される古い物には、
その家の怨念がこもつている」という感覚が、まだまだ強いこと。
この風潮が古い物の流通を妨げている点が否めないという。
「でもね、そうではないんです。物は誰のものでもありません。
一時期、自分がお預かりしているものなのです。」
「自分の好みが変わって、あるいは受け継いだ子係が不用だと感じた場合などは、
次の方にお金と引き換えに預かっていただく。」
「こうして、物は人の手から人の手へと渡り、誰よりもずっと長く生きるのです。」
「こういう欧米流の感覚を持たないと、古い物は根付かないでしょう」と鈴木氏。
なるほど、「人類の遺産」とも言うべきアンティークを自分の物にしよう、
などというのは不遜な考えだとわかる。
あなたも一時期、アンティークの″預かり主″になって、
暮らしの中で芸術を愛でる喜びを存分に味わってみてはいかがだろう?
僕が集めている「ルネ・ラリック」や「バカラ」の
アンティーククリスタルを扱っているお店のオーナー鈴木さんが、
雑誌「Nile’s NILE」に掲載されましたので紹介させて頂きます。
鈴木さんのお店:ギャルリー・オルフェ(http://www.g-orphee.com)
参考:「Nile’s NILE」は限られた読者だけに、
ダイレクトに自宅発送されるライフスタイルマガジンです。
従って一般の書店には置いてありません。(1冊1,500円)
以下、掲載内容を載せておきます。
暮らしのなかで芸術を愛でる喜び (掲載雑誌画像はこちら)
鈴木 尚志
ギャルリー・オルフェ
アンティーク・コレクション。始まりは、最初の一個から
鈴木尚志氏が営む二軒のアンティークショップ、
「ギャルリー・オルフェ」と「アンティークかとう」は、
骨董店が軒を連ねる京都・新門前通りにある。
「ギャルリー・オルフェ」は、1920~30年代のアール・デコと
呼ばれる時代に人気を博したフランスの天才ガラス工芸家、
ルネ・ラリックの作品をコレクションしたショップ。
「アンティークかとう」はガラス製品や陶器、コスチュームジユエリーなど、
1900~50年代を中心とする、20世紀の装飾美術を扱う店である。
「もともと父がやっていた頃は和ものの店でした。
私もその家業を手伝っていましたが、何度か海外に出かけるなか、
15年ほど前にルネ・ラリックと出会ったのです。」
「作品そのものが持つ魅力に引き込まれると同時に、
それが”ちょっとがんばれば買える値投”であることに、
つまり作品とお金の価値がぴったり一致したことに感動しました。」
「自分自身が『好き』という気持ちからのめりこんだラリックを
ビジネスにできるのは喜びだ、そう感じたのです。」
店の片隅に二点、三点と置いたラリックが売れていくなか、
鈴木氏は次第にアイテム数を増やしていき、
十年前に店を現在の形態に改装したそうだ。
「好きだから、ラリックを生業にしている」と言う氏だからこそ、
そのコレクションは同じ感性を持つ客を惹きつけたのだろう。
「アンティークは後生大事にしまっておくのではなく、
生活のなかで使えるものであることが大切です。」
「たとえばラリックの花瓶に花を生ける、
バカラのワイングラスでお気に入りのワインを味わう・・・
生活の一コマにアンティークがあれば、それだけで幸せを感じるものです。」
「とくに入門者の方は、高い値段や名前に惑わされず、
自分が使ってみたいと思うものを何か一つ、
少々無理をして購人してみることをお勧めします。」
「使うことによって、もっと奥にある楽しみを感じることができるはずです。
そうなれば、次は鉢を買ってみようかな、リキュールグラスにしようかなと、
楽しみが広がっていくでしょう。」
一時、お預かりしている物、それがアンティーク
最近女性層を中心に、アンティークへの関心が高まっているという。
殺伐とした日常にあって、せめで家の中では安らぎを感じていたい。
そんな気持ちが幸福感を与えてくれるアンティークヘと何かっでいるのかもしれない。
「生活の安らぎを古い物が持つ温もりに求める人、
現代のインテリアにもマッチする斬新なスタイルを古い物に求める人、
アンティークに向かう気持ちはさまざまですが、
金持ちの道楽的要素は少なくなってきましたね。」
「いずれにせよ、思想があるからこそ、コレクションは楽しいのです」
と鈴木氏は言う。
また、時代を経て受け継がれてきたアンティークには、
現代の大量生産によって作られる画一的な商品にはない味わいがある。
鈴木氏によると、「アンティークには、その物が生きてきた時代の風や空気が感じられます。」
「職人の手によって一つ一つ創り上げられた、心意気のようなものも感じられます。」
「だからアンティークを手に収ると不思議と
『どんな時代に生まれたのだろう?』『どんな人が使ったのだろう?』
といった素朴な疑問がわいてくるのです。」
「『好き』が高じて、アンティークに潜むバックポーンを研究する人も多いんですよ。
それも、アンティークをコレクションする楽しみの一つだと思いますね」とのこと。
お話をうかがうにつれ、アンティークが身近な物に思えてくる。
さらに鈴木氏が指摘するのは、
日本人には「家が落ちぶれたときに売りに出される古い物には、
その家の怨念がこもつている」という感覚が、まだまだ強いこと。
この風潮が古い物の流通を妨げている点が否めないという。
「でもね、そうではないんです。物は誰のものでもありません。
一時期、自分がお預かりしているものなのです。」
「自分の好みが変わって、あるいは受け継いだ子係が不用だと感じた場合などは、
次の方にお金と引き換えに預かっていただく。」
「こうして、物は人の手から人の手へと渡り、誰よりもずっと長く生きるのです。」
「こういう欧米流の感覚を持たないと、古い物は根付かないでしょう」と鈴木氏。
なるほど、「人類の遺産」とも言うべきアンティークを自分の物にしよう、
などというのは不遜な考えだとわかる。
あなたも一時期、アンティークの″預かり主″になって、
暮らしの中で芸術を愛でる喜びを存分に味わってみてはいかがだろう?
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僕の生活は仕事を中心に、ダイビングと旅行で回っているようなモノです。
今回も、ちょっと休暇を戴き、
ミヤンマー(旧ビルマ)&タイに逃避行?に行ってきました。
今回のミヤンマーに限らず、アジアの人って、いい笑顔してると思うんです。
それは、今の日本人が失った純粋な笑顔。
僕の旅は、彼らの笑顔を見る事と食事が最大の楽しみです。
バンコクは、僕が最後、’92年に行った時とは大分変っていました。
野良犬も太って優しい目付きに変容してました。(笑)
人々はみんなガツガツせず、街の喧噪も少なくなっていました。
タイはそれだけ豊かになったんですね。
そしていつか、、笑顔が消えていくんでしょうね、今の日本みたいに。
寂しいですね。
金満大国、ニッポン。
義務教育が幸せなんでしょうか?
お金がある事が幸せなんでしょうか?
モノが溢れている事が豊かなんですか?
他のアジアの国で
服を着ずに裸足で走り回ってる子供が貧しいんでしょうか?
モノが乏しい事だけが貧しさなんでしょうか?
豊かさの基準をどこに置くかですが、、
僕は精神的な豊かさを大切に生きてゆきたいです。
毎回アジアに出かけるたびに、
同じ事を感じるだけで、何も変わらない自分が嫌になったりします。
今回は戦争の爪痕を目の当たりに感じなかっただけ、
穏やかな旅になりました。
京都の夏の夜空に点火され、くっきりと浮かび上がる五山の送り火は、
祇園祭と共に京の夏の風物詩として知られています。
この送り火は「大文字」がもっとも有名で、
そのため、送り火の代名詞のように使われていますが、
他にも御所の鬼門に「妙法」、「船形」、「鳥居形」、「左大文字」の山があり、
これらが8月16日の夜に相前後して点火され、総称して「五山の送り火」と呼ばれます。
誰によっていつ頃から始められたかについて、
俗説は色々とあるのですが、確実な事は分かっていないそうです。
一般的に、この送り火は、お盆の翌日に行われる仏教的行事であり、
再び冥府にかえる精霊を送るという意味を持っていて、
これが一般的に行われるようになったのは、
仏教が庶民の間に浸透した室町以後の事だと言われています。
当時はお盆の翌日の夜に、松明の火を空に投げ上げて、
虚空を行く霊を見送るという風習があったと云い伝えられています。
そしてこれが山に点火され、空中に固定されたもの(字・形)であると言われています。
写真は僕の京都の実家の裏山である「船形」です。
家のベランダから撮りました。
(詳細図1)
翌朝5時に起きて、二日酔いの重い体を引きずり「船形」に登りました。
無病息災の祈願のため、大文字焼きの消し炭を取りに、、
この場所に「護摩木」などが、薪と共に積み上げられ火床となり、火が着けられます。
この1つ1つが集まって線になり、1つの文字(形)となります。
(詳細図2) (詳細図3)
手前は、送り火「船形」の最も上にあたる所です。
(詳細図4)
消火設備も万全を期して準備されます。
(詳細図5) (詳細図6)
これは、「船形」の最上部から見下ろした京都の街です。
ほら、写真中央、上の方にある、まるで御殿のような家が僕の実家です!(笑)
(詳細図7)
祇園祭と共に京の夏の風物詩として知られています。
この送り火は「大文字」がもっとも有名で、
そのため、送り火の代名詞のように使われていますが、
他にも御所の鬼門に「妙法」、「船形」、「鳥居形」、「左大文字」の山があり、
これらが8月16日の夜に相前後して点火され、総称して「五山の送り火」と呼ばれます。
誰によっていつ頃から始められたかについて、
俗説は色々とあるのですが、確実な事は分かっていないそうです。
一般的に、この送り火は、お盆の翌日に行われる仏教的行事であり、
再び冥府にかえる精霊を送るという意味を持っていて、
これが一般的に行われるようになったのは、
仏教が庶民の間に浸透した室町以後の事だと言われています。
当時はお盆の翌日の夜に、松明の火を空に投げ上げて、
虚空を行く霊を見送るという風習があったと云い伝えられています。
そしてこれが山に点火され、空中に固定されたもの(字・形)であると言われています。
写真は僕の京都の実家の裏山である「船形」です。
家のベランダから撮りました。
(詳細図1)
翌朝5時に起きて、二日酔いの重い体を引きずり「船形」に登りました。
無病息災の祈願のため、大文字焼きの消し炭を取りに、、
この場所に「護摩木」などが、薪と共に積み上げられ火床となり、火が着けられます。
この1つ1つが集まって線になり、1つの文字(形)となります。
(詳細図2) (詳細図3)
手前は、送り火「船形」の最も上にあたる所です。
(詳細図4)
消火設備も万全を期して準備されます。
(詳細図5) (詳細図6)
これは、「船形」の最上部から見下ろした京都の街です。
ほら、写真中央、上の方にある、まるで御殿のような家が僕の実家です!(笑)
(詳細図7)
2001年の夏、僕はイランに行きました。
バックパックを背負って国境を越えるのが好きで、
その行き先が未知の国、神秘の国イランに向いただけでした。
大学時代の英語の授業で読んだアラビアのロレンス以外、何の予備知識もないまま、、
僕が旅行したのは、2003年4月のフセイン政権の崩壊以前でしたから、
個人では済ませない問題に発展する事までは考えず、単なる興味本位で行ったのです。
僕は自分の眼で見て確認しないと気がすまないところがあります。
実際に行ってみた(当時の)感想は、、
それまで行ったどの国よりも良かったという事です。
それ以降にもあちこち行きましたが、今でもその印象は変わっていません。
今では日本も決して安全とは言い難いです。
日本に住んでいる僕たちは日本の良いところを分かりながら生活をしているので、
凶悪な事件がおこっても、普段とおりの生活を普通うにしています。
メディアでは、その悪い部分だけを報道するので、その国の良い部分を知らない人は
その事件だけで、その国を捉えてしまいます。
しかし実際、普通に暮らしているイランの人々は、とても親切で、
日本人が失った親切さ温かさ?人情味?のある方が多いのです。
タクシーでレストランの行き先を告げると、
レストランなんか行かずに自分の家に来いと、そのまま連れていかれ、
食べきれないご馳走と果物を出してくれたりします。
夜、歩いているといたるところでナイトピクニックをしている家族に呼び止められ、
これまた食べきれないほどのサンドイッチが振舞われます。
美味しいと言うと、送ってやるから住所を書けと言われます。
道を歩いていると、どこまで行くんだ?と聞かれ、送っていってくれます。
お節介どころか、煩いくらいです。
僕は、そんな彼等を思い出すたびに、メディアが報じるイランの映像を
信じられない思いで見入ってしまい、親切にしてくれた(ほとんどの人)人の事を思い出します。
バックパックを背負って国境を越えるのが好きで、
その行き先が未知の国、神秘の国イランに向いただけでした。
大学時代の英語の授業で読んだアラビアのロレンス以外、何の予備知識もないまま、、
僕が旅行したのは、2003年4月のフセイン政権の崩壊以前でしたから、
個人では済ませない問題に発展する事までは考えず、単なる興味本位で行ったのです。
僕は自分の眼で見て確認しないと気がすまないところがあります。
実際に行ってみた(当時の)感想は、、
それまで行ったどの国よりも良かったという事です。
それ以降にもあちこち行きましたが、今でもその印象は変わっていません。
今では日本も決して安全とは言い難いです。
日本に住んでいる僕たちは日本の良いところを分かりながら生活をしているので、
凶悪な事件がおこっても、普段とおりの生活を普通うにしています。
メディアでは、その悪い部分だけを報道するので、その国の良い部分を知らない人は
その事件だけで、その国を捉えてしまいます。
しかし実際、普通に暮らしているイランの人々は、とても親切で、
日本人が失った親切さ温かさ?人情味?のある方が多いのです。
タクシーでレストランの行き先を告げると、
レストランなんか行かずに自分の家に来いと、そのまま連れていかれ、
食べきれないご馳走と果物を出してくれたりします。
夜、歩いているといたるところでナイトピクニックをしている家族に呼び止められ、
これまた食べきれないほどのサンドイッチが振舞われます。
美味しいと言うと、送ってやるから住所を書けと言われます。
道を歩いていると、どこまで行くんだ?と聞かれ、送っていってくれます。
お節介どころか、煩いくらいです。
僕は、そんな彼等を思い出すたびに、メディアが報じるイランの映像を
信じられない思いで見入ってしまい、親切にしてくれた(ほとんどの人)人の事を思い出します。